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14.オランダと日本の事件間の通訳はフランス人

1628年に台湾で起きた「タイオワン事件」ですがオランダと日本の間に入って通訳として交渉したのがフランス人、フランソワ・カロンという人のようです。フランソワ・カロンの経歴がとても面白いです。

フランソワ・カロン

”フランソワ・カロン(フランス語: François Caron、1600年 - 1673年4月5日)は、オランダに亡命したフランスのユグノー教徒。オランダ東インド会社に30年以上勤務し、最終的にはバタヴィア商務総監(植民地総督の次席)にまで昇進した 。後にはフランス東インド会社の長官(1667–1673)を務めた。しばしば、日本に渡来した最初のフランス人とされる。確かに当時南ネーデルラントに属したブリュッセル生まれのフランス系の亡命ユグノー教徒であるが、実際にはフランス国民となったのは、後にフランス東インド会社の社長になることを受諾したときである。”

”カロンは、料理人として1619年に平戸のオランダ商館に着任した。その後、1641年まで20年以上滞在することとなる。この間に江口十左衛門の姉と結婚し、6人の子供をもうけている 。1626年には商館助手に昇進した。

日本人と結婚したこともあり、日本語に熟達した。1627年に台湾行政長官のピーテル・ノイツが来日し、台湾での貿易に関して将軍徳川家光に拝謁を求めた際には、通訳として参府している。当時江戸にオランダ語通詞はおらず、ポルトガル語を経由して意思疎通を図っていたが、日本語が話せるカロンは非常に重宝された。結局末次平蔵の妨害により拝謁は実現せず、ノイツは成果無く台湾に戻ることになるが、その際にカロンも同行した。その後、ノイツと平蔵の問題はタイオワン事件へと発展し、平戸商館は4年間閉鎖されたが、ノイツを日本に人質として渡すことで交易は再開された。カロンはこの解決のためにバタヴィア(インドネシア)と日本を往復している。”

カロンはオランダ東インド会社の社員として、長崎県平戸のオランダ商館赴任して日本人と結婚していた。そして、最初に日本に来たフランス人って。亡命していても、フランス人って言うのかな??その後、フランス東インド会社の社長ってダイナミック運命ですね。なぜ、フランスからオランダに亡命したのか調べると、

”両親がフランス宗教革命で 火炙り か 亡命 か で 南オランダ ブリュツセル に 亡命しました。”

いやー恐ろしい時代だわ、「火炙りか亡命」だと、どう考えても亡命しか選択しが無い気がします。

"1614年 キリシタン禁止令 旧教 宣教師 国外追放 等 厳しい時代です。"

日本も同じような時代だったようです。宗教の自由がない時代は恐ろしい。

島原の乱が1637年で、フランソワ・カロンは日本に住んでいた時ですから、天草四郎時貞と会っていたのですかね。そして、島原の乱どのように思っていたのでしょうかね。

Thanks 参考出展

ウィキペディア フランソワ・カロン

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%83%B3

倭寇のブログ フランス人の若いフランソワ青年の謎

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